こんにちは、ヤスモン(@yasumon)です!
金沢城の壁って何で作られていると思います?
実は、金沢城の壁の多くは、鉛で作られているんですよ。形はナマコそのもの。だからナマコ壁と呼ばれてるんですよ!
あと、金沢城は、その昔は大学があったんですね。
今日は、金沢城公園のトリビアを5つ(海鼠壁と鉛瓦、お城の大学、参勤交代、戸室石、金谷御殿)紹介しますね!
一生に一度か二度の金沢城観光だから、もっと楽しく観光してもらいたいと思って、この記事書きました!
【海鼠壁と鉛瓦】壁にナマコ?
海鼠壁(なまこかべ)は、ナマコの形をした壁のことで、金沢城の様々な場所で使われているんですよ。
海鼠壁は、四角い枠が網目のようになっていて、枠の白い部分がナマコに似ているんですね。
海鼠壁は、金沢城の特徴の一つで、新潟県の新発田(しばた)城も海鼠壁を用いています。

鉛瓦(なまりがわら)は、名前のとおり、瓦に鉛を使ってるんです。
金沢城で鉛瓦が使われ始めたのは、江戸時代の1665(寛文)頃のこと。
鉛を瓦に使った理由は、「瓦を美しく見せるため」「加賀藩で鉛が余った」など諸説ありますね。
人によっては、銃弾を通さないようにするため!と言う人もいるんですよ。
鉛は、当時、加賀藩の一部だった富山県や石川県の一部の地域で、多く生産されたそうです。
【お城の大学】めっちゃ優雅やん!

お城の大学と呼ばれた金沢大学は、1949年に創設され、当時は、金沢城の中にキャンパスがあったんですよ。
何ともシャレオツな大学ですね!
丸の内キャンパスとも呼ばれ、お城の大学にあこがれて入学する学生も多かったそうですね。
金沢大学より前は、旧陸軍が使用していたんですよ。
金沢大学は、1989年に別の場所に移るまで、約40年間、金沢城をキャンパスにしていました。
金沢城の石川門を入った入口に、「金沢大学誕生の地」の石碑があります。
【加賀藩の参勤交代】13日でいざ江戸へ!

加賀藩の参勤交代は、1635(寛永12)年~1862(文久2)年まで、190回あったそうです。

加賀藩の参勤交代のルートは、金沢城を出発して、金沢から新潟まで北上し、長野を通り、中山道に入る「北陸新幹線」と同じルートだったそうです。
金沢から福井回りで下に行き、東海道から江戸に行くルートを参勤交代で使ったのは、だった9回のみでした。

金沢城を出るときは、当時正門だった「河北門」を利用しました。

次に、河北門から約50メートル先にある、金沢城の入口「尾坂門」を出て、江戸に向かったんですね。

この尾坂門は、参勤交代の始点だったんですよ。
金沢から江戸までは、約480キロメートル、1回の参勤交代で2,000人以上の参勤交代の行列が、約12泊13日かけて、歩いたそうです。
もちろん今じゃ想像つかないんですけど、2,000人が一斉に徒歩で移動してたって、なんかすごい世界(^^;
【戸室石】加賀藩のインフラかい?

戸室石は、金沢城公園の石垣や、兼六園の虹橋・雁行橋など、様々な場所で使われている石ですね。
戸室石には、青みがかった青戸室石、赤みを帯びた赤戸室石があって、石質が柔らかく、加工しやすいのが特徴ですね。
戸室石は、安山岩の一つで、戸室山や、その先にある医王山(いおうぜん)付近から、採ることができます。
石川県金沢城調査研究所による調査によると、戸室石を採った跡が、1,300箇所以上もあったそうですよ。
【金谷御殿】小城ですね!

金谷御殿(かなやごてん)は、金沢城の出丸(でまる)で、加賀藩主の隠居所だったんですよ!
金谷御殿は、金沢城の端にあったこともあり、静かな場所で、隠居した加賀藩主や、奥方などが暮らしていたそうですよ。

金谷御殿は、もともと、金谷町として商家があった場所ですが、金沢城の一部として使われるようになったんです。
加賀藩5代綱紀(つなのり)の時代には、金谷御殿の場所に、書院や馬場などが、作られました。
12代藩主斉広(なりなが)は、隠居の時に、金谷御殿は暗い場所として嫌ったんですね。それで、兼六園に豪華な竹沢御殿を作りました。

現在、金谷御殿があった場所は、尾山神社の敷地になっていますね。
尾山神社は、加賀藩祖の「前田利家」と、正室の「お松」を、主祭神(しゅざいじん)として祭っている神社です。

唯一、金谷御殿の跡が残っているのは、尾山神社の敷地内にある庭園ですね。
また、尾山神社の摂社(せっしゃ)として、金谷神社があります。
摂社は、神社本社の境内にある小さな神社のことですね。

金谷神社には、2代目藩主・利長以降の前田家の藩主と、正室が祀られているんですよ。
参考文献:
・北國新聞社出版局 「平成金沢城」(北國新聞社、2015)