こんにちは、ヤスモン(@yasumon)です!
兼六園の歴史って興味ありますか? ひょっとしたらないかもしれませんね(^^;
なぜ、兼六園が作られたのか?
なぜ江戸時代からの庭園がそのまま残っているのか?
気になる人は、気になりますよね!
兼六園は、もともとは金沢城の防御のために作られたんです。なぜって、加賀百万石は日本一の外様大名だったから、徳川幕府に睨まれていたわけです。いつ、攻撃を仕掛けてくるか分からないと。
加賀藩祖の前田利家が、徳川家康と仲が悪かったのも一因ですね。晩年、家康が利家の病気見舞いに来た際には、枕の下に刀を忍ばせていたくらいですから。
江戸時代からの庭園が残っているのは、戦争で米軍の空襲を受けなかったからです。
では、兼六園を詳しく知る、名前の由来、明治時代からの兼六園、について紹介しますね!
読み終わるまでに、約3分かかりますが、少しお付き合いください。
歴史を詳しく知る

兼六園は、江戸時代に加賀藩主・前田家が作った庭園で、歴史と深い関りがあるんです。
兼六園ができる前は、兼六園の周りは湿地帯になっていて、蓮の花が咲いていたことから、蓮池(はすいけ)と呼ばれてました。
加賀藩3代目の藩主・利常の時代には、今の兼六園の東側に、前田家の家臣の屋敷がありました。(この頃は、加賀藩と徳川幕府が激しくやりあっていた頃です。)
兼六園は、もともとは、金沢城を守る役割があったんですが、山崎山など、園内のいくつかのスポットに総構えの跡がありますね。(総構えは、お城の周りを石垣や堀などで囲むことです。)

5代目藩主・綱紀の時代から、兼六園の原型となるお庭やお座敷が作られ、兼六園の歴史がスタートします。
11代目藩主・治脩の時代には、兼六園に翠滝・夕顔亭・時雨亭などが作られ、12代斉広の時代には、斉広の隠居処となる竹沢御殿が作られました。
(この竹沢御殿は、部屋の数が2百、広さが4千坪もあり、大きくて豪勢なものでした。)
13代斉泰の時代には、今の兼六園の中心的な存在となる霞ヶ池が作られました。
(ちなみに、霞ヶ池には、「水落とし」という仕掛けがあって、非常事態の時に、霞ヶ池の水が一気に流れだすようになっているんですよ。)
名前の由来

兼六園という名前が付けられたのは、12代目斉広の時代です。
名前を付けた人物ははっきりとしたことは分かってないんですが、公家の摂津家が関わっているとされています。
兼六園の名前の由来は、6つの勝を兼ねているからなんです。
6勝は、宏大、幽邃、人力、蒼古、水泉、眺望のことで、実現が難しいとされる相反する景観なんですよ。
名前の由来の詳細はこちら↓
明治時代からの兼六園

明治時代から兼六園は、一般に解放され、誰でも入ることが出来るようになりました。1874(明治7)年のことです。
1880(明治13)年には、西南戦争における戦死者を慰霊するため「明治紀念之標」が作らました。(ヤマトタケル像のことですね。)
1922(大正11)年、兼六園は名勝に指定されます。
1942~1945(昭和17~20)年、兼六園および金沢の地は、第二次世界大戦の空襲の被害を免れました。
(これが、江戸時代からの庭園がそのまま残っている理由ですね!)
1950(昭和25)年、兼六園は名勝の中でも特に価値が高い特別名勝に指定されました。
2000(平成12)年、「時雨亭」と「舟之御亭(ふなのおちん)」が再現されました。
まとめ
兼六園の歴史、いかがでしたか?
兼六園は、まさに前田家と共に歩んできたのが、よく分かりますね。
そして、戦争の被害を受けず、江戸時代の庭園がそのまま残っているのも、兼六園の人気の理由ですね。
では、ワンランク上の兼六園観光を楽しんでくださいね!
参考文献:
・村上貢、宇佐美孝 「兼六園」(北國新聞社、2013)
・長山直治、「兼六園を読み解く」(桂書房、2006)